今日行ってきたのは
国立西洋美術館の
マティス展であってピカソ展ではないです。なのになぜこの絵を掲げているかといえば同行した同居人と往路賭けをしたからで、それは『貧しき食事』というこの絵に描かれている人物は何人だったか、というもので。行く場所は国立で西洋で美術館なのだから、マティスの特集でもピカソの画集くらいあるだろうと。そこで正解が出るはずだと。
自分は確か1人だと記憶していて同居人は2人としていた。はい、自分の負け。でも自分の罰ゲームが確定したのは自宅に帰ってネット検索してからで、美術館にはこの版画の載っている画集はなかった。
自分はこれでも一応美大出で、美術史の教科書とか頭に入れたことがあるので、上野のあんなでっかい美術館に行くのは教科書に載ってる絵の実物を確認しに行く事とほぼ同義。実際今日のマティスっていうかマチスと呼んでいたのだけど彼の作品は何枚か教科書で観ていて、その上自宅にはなぜか小さいポスターがあるのです。切り絵シリーズのやつ。だからそれらの本物にギリギリまで目を近付けて、どんな紙使っててどんな風に切ってて(道具は何使ってて)どの色の上にどの色を貼ってあるかなどなど、こころゆくまで確認してきたんだけど。そう確認。感動したん?と訊かれればそれほどでもなかったと答える。大好きな『ダンス』って絵がなかったということもあるけど。
こんなにマチスの絵を(しかも本物を)凝視したのは初めてなんだけど、自分には退屈だった。画家が絵を完成させてゆく過程が今回の展覧会では提示されていたんだけど、普通の人物画とか、きちんとデッサンした上で崩してゆく。一度描いたものを塗りつぶしたり修正したりして、最終的にあのゆるいタッチの「未完成」と言われても気付かないような絵にもってゆくらしいのだけど。削ぎ落としていく、という思考の繰り返しでついに晩年は一筆書きとか切り絵に行き着くのを知るのは確かに感動的。作家の一生を斜め読みできるという至福。
でも退屈なのはなんでかというと、あのう、絵の見方が昔とすっかり変わったのだと思った。自分が美大予備校に通っていた頃、ステキな師匠によって絵の見方を教わり、構図とか筆致とかマチエールとかからの細部から読む方法を学び、その技量やら発明やらに感動して「すげえ」っていうのが昔。だからセザンヌとか大スター。キュビズムの考えに唸り。その気になれば小一時間、一枚の絵を見てられるようになったころ、地元の美術館にやってきたのがピカソの『貧しき食事』。
自分の後輩にあたる石井君といっしょになってずーっと見ていた記憶がある。銅版画なので全てが引っ掻き傷で描かれており、どの線がどういう効果で引かれているかとか追い出すとホントすーっと見てられる。穴の空く程見た。石井君は絵画科だったので自分より数倍よく見ていたけど。
で、うーん勉強になった、と美術館を後にしてそれっきり忘れてしまったみたいだ。何が描かれているか。登場人物が1人か2人か、なんていう簡単なことは見てなかったのだ。
なんとか大学にもぐりこんだことで逆に絵を見なくなった(真理)ので、こういう印象は忘れていたのだけど今日わかった。なんか絵を引いて見れるように自分は変わったようだ。気になるのは筆致ではなく何を描いたか、どういう態度で対象に向かっているか。マチスは絵の構図とフォルムにしか興味がないように見えて、そのためにモチーフを極端に対象化しているように思え、そんな求道者的な姿勢よりも、もうちょいなまっぽい感情が見えたほうが面白いと思う今の自分には退屈だったということか。
常設展示室にピカソの落書きみたいな雑な(!)絵があったのだけど、それはもうめちゃくちゃなパワーに溢れており、こう、明らかにその姿勢じゃ局部は見えないですよという裸婦らしき絵なのに局部が描かれているわけで。こういうのが作家のなまっぽい感情か、と訊かれたら違うんだけど。たぶん。でも自分はこういうのが好き。可愛いじゃないですか。
写真とか映画とかはじめたせいでこう変化したわけじゃないと思う。まあ多分老けたんでしょう。細かい事はどうでもよくなったのでしょう。それもひとつの、年を重ねるということなのだけど悪くないと思った。冒頭の話に戻ると自分は賭けに負けたわけで、これから一週間の罰ゲーム期間に突入するわけで心底鬱なのだけど。
ついでに告白すると予備校時代本当に好きだったのはシュールレアルズムでした。ありえない感じに感動してました。あと宗教画とヴァニタス画も好き。描かれていること全てに象徴的な意味がありそこを読んでいく感じが。細部を見るといろいろ遊んでたりするのです。