大ファンなんですよ。本当に。
リトル・フォレスト 1 (1) 五十嵐 大介 講談社 2004-08-23 by G-Tools |
自分の友人にNDKというひとがいて、諸星大二郎マニアで伝奇モノに目がない慧眼のまんが読みなのですけど、このひとに五十嵐大介というまんが家の存在を紹介したところ『魔女』がイイ!と言っていた。
そのことについては自分も異存はまったくないのだけど、自分的には『はなしっぱなし』におけるイメージの珠玉の飛躍、およびそれがこともなげに一話一話、タイトルどおり「はなしっぱなし」で放り投げられてゆくとこにすさまじい才能を既に感じていたので、NDKの好みに違和感を抱いたりそうかと思えば突然納得したりあげくのはてに「気付くの遅っ!」と思った。いや遅くないんだけど。自分が紹介したんだから。なにを混乱していたのか自分。それほど五十嵐大介に入れこんでいるという意味の記述なんですけれど。
杉浦日向子さんの『百物語』もすごいけど舞台が江戸時代だから「起こりえたかもしれない」とどっかで思ってしまうとこがあって、現代設定で此処と彼方の隙間に奇妙で美しい現象をあっさりと起こしてしまう五十嵐さんの力をほんと尊敬する。
自分の脳内ではまんがを読む時デフォルトで「実写化モード」になっていて、つまり「映像にしたらどうなるんだろう」と頭のどっかで考えてしまうわけですが、五十嵐さんのまんがはもう実写化の処理速度が追い付かない。純まんが体験。他メディアに変換不能な作品こそ良質な作品の証(可能か不可能かは置いといて変換されるのが世の流れですが)。ちなみに自分の田舎では「いからし」と発音しますが『リトル・フォレスト』は田舎の話。強引な展開。
『二十世紀ノスタルジア』の頃の広末さんに似てる(と思う)主人公「いち子」が、「小森」という山村に暮らし、作物やら野草やら採って料理して食べる。という話。
いえ、たしかに自分日本語下手ですけど、本当にそういう話なのだから仕方ない。一話は『はなしっぱなし』みたいに短いんだけど不思議要素一切なし。「家の床板をはがすとクラゲが」とかないから。本当に。
でもこれがものすごい読ませるんですよ。少ないページの中で「ある食材とかレシピ」「作る」「食べる」という「縛り」を忠実に守っているというのに、そこに少しづつドラマを滑り込ませる。一話読んだだけでもういち子のことがわかったような気になる。いったいどこにそんなマジックが潜んでいるんだろう?と分析したくもなりますよ。できませんけど。よく考えたら自由自在な飛躍とはその反対のリアリズムあってのことですよね。本当に力があるひとだと思って、もう自分はグウの音も出ないんですけど。
「食」は「生き方」だ、と思いっきり!言い切ってしまったのはもしかして『美味しんぼ』かも知れないですけど、そうじゃなくて、『リトル・フォレスト』はそういうこと声高にさけぶ必要もなく「そこにいるのだし、食べてるし」ということがすでに「生き方」であるってことに気付かせてくれる感じ。いやオレって哲学だからさー、とか、達観した感じを看板にせず、淡々とした(でも細密な)生活描写の中で「気付かせてくれる」ってすごいことだと思う。作家の仕事とは思想を語ることじゃなくて実践する者を描くことなのですね、と勝手に勉強させてもらいました。
『リトル・フォレスト』はやりかたによっては永遠に続けられる作品だと思うけど、終わることを想定して描かれているような気もし、その時のことを想像すると今から寂しいですよ。
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